いつの間にか赤羽隼人が家に棲みついていた。
玄関を開けたら赤羽が立っていて、ヒル魔があまり深く考えずに家に上げたのが始まりだった。
彼はソファーに座り脚を組むなり、担いでいたケースからギターを取り出して演奏を始めた。
ヒル魔も初めのうちこそ興味深く観察していたのだが、やがて飽きてパソコンに向かってしまった。
それでも夜になると勝手に帰っていたのだが、ある日ヒル魔が気が付くと終電がない時刻にも関わらず赤羽はまだいた。
どうするのかと思って見ていたら「君は、こんな時間に客人を外に放り出すほど酷い人間なのかい」と言ってきたので
「勝手にソファーで寝ろよ」と渋々泊めてやったらそれ以降帰らなくなってしまった。
別に赤羽がいたところで、彼は大抵ギターを弾いているか楽譜を読んでいるかなので邪魔にはならない。
勝手に寝室に入ってくることもなく、夜もソファーで寝ているようだし
何よりヒル魔はあまり細かいことは気にしないタチだったので、まぁいっかと放っておいた。
夜、ヒル魔が寝室に引っ込むときも彼はあの特徴的な赤い目をしてソファーにいるし
朝、ヒル魔が寝室から出てくる時も彼はあの特徴的な赤い髪をセットしてソファーにいた。
しかも朝食まで用意してくれるので、朝が壊滅的に弱い低血圧のヒル魔にとってはありがたかった。
「フー、また君はそんな寝癖をつけて・・・。さっさとシャワーでも浴びてきたらどうだい」
きちんとコンタクトを入れ、髪もセット済みの赤羽はまだ覚醒していないヒル魔の様子を見てあきれたようにため息をつく。
だるい体を引きずって返事をする気力もなさそうなヒル魔は、バスルームで熱いシャワーを浴びてようやく覚醒するのだ。
「あーすっきりした」
「ヒル魔!よく拭いて出ないから床がびしょびしょじゃないか!」
「別にいいだろ、すぐ乾くし」
髪も乾かさずぽたぽたと水滴を滴らせながら、とりあえずタオルを腰に巻いただけのヒル魔がバスルームから出てくる。
フローリングに水溜りを作ってキッチンに向かう惨状を見咎めて赤羽が声を荒げるが、ヒル魔は自分の家だし、と取り合わない。
冷蔵庫を開けて水を取り出し一気に煽った。
ばさっ。
「ん?」
「・・・フー、ヒル魔、朝っぱらから不快なものを見せないでくれるか」
「うるせーな、同じモンついてるだろが」
「・・・いいからさっさと服を着てくれ」
床に落ちたタオルを拾い上げ、ヒル魔が寝室に消えたのを見て
もう一度赤羽はため息をつき、点々と残された水溜りをタオルでふき取った。
そうこうしているうちにようやくヒル魔も身支度を整え、用意された朝食を食べる。
そうして二人で家を出て、それぞれの高校に向かうのだ。
「不便でしょうがないな」
そう赤羽がぼやくから合鍵を渡したら、いつもヒル魔より早く帰ってくるらしい彼は夕食も用意してくれるようになった。
だからヒル魔も大体決まった時間に帰るようになった。
一度、いつもの時間より大幅に遅れて帰ったところ、連絡を寄越さなかったのがまずかったらしく
赤羽が思いっきり機嫌を損ねてしまったことがあった。
なんでいちいちそんな連絡しなきゃなんねーんだと思う反面
やはり食事を作ってもらえるのはありがたかったし、自分が原因でイラつかれているのが嫌だったので素直に謝った。
彼は「分かってもらえればいい」と言った後、いつものようにギターを取り出して演奏を始めてしまったので
ヒル魔もその時はなんとなく、PCには向かわず赤羽の向かいのソファーでぼんやりとそれを聞いていた。
いつも彼が奏でるそのメロディは、騒がしさを好まないヒル魔にとっても心地いいものだった。
いつのまにか寝てしまったらしく、気が付くと寝室の自分のベットの上だった。
覚えがないからきっと赤羽が運んでくれたのだろう。
後にも先にも、彼がヒル魔の寝室に入ったのはそれきりだった。
ヒル魔は集中力が高い。
外ではあまり周りが見えなくなるほど作業に没頭することはないが
自分の家だと気が抜けるのか赤羽の存在を忘れてしまうほどPCに向かっていることが多い。
ある時ふとヒル魔が気がつくと、作業中のPCを赤羽が覗き込んでいることがあった。
ヒル魔が軽く眉をひそめながら、なんだよ。と彼を見上げると、彼は好奇心だ。と答える。
「見世物じゃねーんだよ」
「知っている。ちょっと気になっただけだ」
ヒル魔は殊にアメフトに関しては秘密主義だったし、ましてや対戦済みとはいえ
敵チームのブレインが泥門のブレインである自分のPCを見ることなんてあってはいけないことなのに。
なぜかその時ヒル魔は赤羽に「じゃあこれどう思う?」と話を振ったのだ。
すらすらと返される回答に、そういえばこいつはMVPだったなと思い出しながら返事をした。
「君の意見は興味深い」
いくらか会話を交わした後、赤羽はかけていたサングラスを長い指で引き抜いて赤い目でじっとヒル魔を見つめる。
ヒル魔が肩をすくめて、そりゃどーも。と返すと、少し不満そうにフーといつものため息をついたのだった。
真夜中急に、暗闇の中で目が覚める。
ヒル魔はベッドの上でゴロゴロと寝返りをうってぼんやりとしていたが
やがてのどの渇きのせいだと気がついて、のそっと上体を起こした。
秋の気配が強まる季節で空気が乾燥していたのだろう。
渇きを癒すために水でも飲もうと寝室のドアを開けた。
電気もつけず暗い中をキッチンまで歩いていく。
冷蔵庫からペットボトルの水を出して思いっきりあおり、はぁ、と満足げに息を漏らした。
寝室に戻って寝なおそうとリビングを横切った時、そういえば赤羽がソファーで寝ているはずだと気がついた。
彼はヒル魔が見た限り、いつもカラーコンタクトをつけて髪形もセットしていてそれ以外を見たことがない。
赤羽が家に来てからしばらく経つはずなのに、一度も素顔の彼を見たことがなかった。
それこそほんの好奇心だったのだ。
ヒル魔が、ソファーに近づいたのは。
暗い中ひざまずいて、長身をソファーにたたえて眠る赤羽の顔をそっと覗き込んだ。
シャワーで整髪剤を落とした彼の赤い髪はサラサラとまぶたに落ちかかっている。
それは静かに寝息を立てる赤羽の大人びた顔を、いくらか幼くも見せているようだった。
こうして見ると彼は性格そのままに本当に優しげな顔立ちをしていて
ヒル魔はだから彼が自分のプライベートな空間を共有していても気にならないのだと知った。
もっとも、赤羽が優しげに微笑するところなんて見たこともない。
ただいつも多少不機嫌になりながらも世話を焼いてくれるのは、改めて彼の優しさだと。
目は、素顔の彼の目は何色なのだろうか。
暗い室内でも鮮やかに思い出せる、赫い赫い彼の目。
カラーコンタクトを外したら本来の目の色はやはり黒いのだろうか。
見てみたいのだが流石に赤羽をたたき起こすのは気が引ける。
彼だって朝練や放課後の部活で疲れているだろう。
自分だって明日がある。もう戻って寝たほうがいい。
そう思いながらヒル魔は、最後に細心の注意を払って赤羽の前髪を細い指でそっとかき上げてみた。
「・・・・・っ」
息を呑んでヒル魔はぎくりと身をすくめる。
赤羽の髪に触れていた手を、正確には手首を掴まれたからだ。
「どうした?」
赤羽が目を開けて掴んだヒル魔の手を見、そして上体を起こす。
どうやら起こしてしまったらしい。
「・・・んでもねぇよ」
しまったと思いつつ、ヒル魔は好奇心に勝てず赤羽の顔を下から覗き込んだ。
暗闇が災いして、目を凝らしてもその色までは分からない。
ただなんとなく普段よりも虹彩の色が濃い気がする。
明るいところで見たら、深いブラウンの色でもしているのだろうか。
尚もじっと目を凝らして赤羽の目を見つめていると、ふいに視界が塞がれた。
「あまりジロジロ見ないでくれないか」
そう赤羽の声が聞こえてきて、自分が赤羽の手の平で視界を遮られたと気がつく。
普段ならその手を振り払うところだったが、すでに彼を夜中に起こしてしまった気まずさを感じていたヒル魔は
素直に悪ぃと言って身を引こうとした。
しかしヒル魔が口を開く前に、ふわりと熱が唇を掠める。
それは一瞬だったけれど、微熱と感触と存在感と。
確かに自分は口付けられたと気がつくには十分で。
「なにしやがる」
目を覆う手が離れてから見た、自分を覗き込んでいる赤羽の顔は普段どおりだったから
ヒル魔も平静を装って声を出した。
言ってから後悔する。
赤羽の表情からは何も読み取れない。
だけど思い当たってしまったのだ。
ずっと、彼はここで。
「てめぇの考えていることは分からねぇな」
ヒル魔は赤羽の視線を振り切って先手を打つ。会話を終わらせて、もうここから離れなければ。
立ち上がろうと片膝を立てて掴まれた手を引くが、赤羽は離してはくれなかった。
「フー、君は本当にがさつだし、口も悪い」
「・・・・うるせぇな」
離れたくて手をぐいぐい引くが赤羽は掴んだままで話し続ける。
「アメフト以外は適当で、放っておけば食事もろくに取らずに夢中になっている」
ヒル魔は自由なほうの手で手首を戒める赤羽の手に手をかけたが
彼は自分の力なんかじゃ引き剥がせないことを思い出しただけだった。
思わず赤羽を見上げてもう一度後悔する。
彼はずっと自分を見つめていて、暗闇の中いつもの無表情だったけれど。
どうして今まで気がつかなかったのだろうか。
「ヒル魔、だけど僕は、君の頭脳が奏でる五線譜の調べにこそ心酔する」
意味を理解したくないのかそれとも出来ないのか自分でも分かりかねてヒル魔が動きを止める。
赤羽の指がしなだれたヒル魔の金髪をそっとかき上げて、その顔を覗き込んだ。
「簡単な話だ、ヒル魔。僕は君が好きなんだ」
彼がずっと奏でていた曲はセレナーデ。
それは確か、想い人を称える曲。
困惑してヒル魔は目をそらす。珍しく混乱して思考がまとまらない。
アメフトの試合中なら何十通りのタクティクスをはじき出す脳味噌も、今は役に立たなかった。
赤羽は掴んでいた細い手を強く引き寄せる。
バランスを崩したヒル魔は自由なほうの手を赤羽の肩について身体を支えようとしたが
赤羽はヒル魔の背に手を回し、強引に抱きしめた。
返事を返せと迫られそうでヒル魔は息を詰める。
自分の中で出ていない結論なんて答えられない。
いつものようなハッタリですら思いつかない。
シュミレーションしたことも、まして出くわしたこともない出来事に遭遇すると
意外にどうにもならないなと自嘲気味に思った。
赤羽には、ヒル魔からの答えは出ないことは分かっていた。
それなのにどうしても手を離すことができない。
拒絶されていないのは、単にヒル魔が困惑してどうすべきか迷っているだけだというのに
ますますと抱きしめる腕に力が入る。
ずっと見てきたヒル魔の、その細い背が綺麗にしなった。
「もう、戻った方がいい。明日も早い」
自制心を総動員して腕の力を緩め、ヒル魔を開放する。
覗き込んだヒル魔の瞳は、赤羽が思ったよりしっかりしていた。
自分を失わないその様子に安堵する。
本当に珍しく安心して微かに零れた微笑を、ヒル魔はじっと見つめていた。
やがて立ち上がり、いつもの口調でオヤスミと言って寝室へと戻っていく。
小さくドアが閉まる音が聞こえてきて、赤羽はギターを弾きたい思いにかられたが
流石にギターごと撃ち抜かれるだろうかと考えてやめた。
代わりに目を閉じて想い描く
五線に舞う、花びらのような旋律を。
ベッドに潜り込んだヒル魔は、その時初めて自分の鼓動が普段よりも早いペースになっている事に気がついた。
だけど、横になって目を瞑っているうちに緩やかになってきて、いつの間にか眠りにつく。
眠りに落ちるその時に、胸を焦がすような旋律が聞こえた気がした。
翌朝いつもより遅く寝室から出てきたヒル魔は、赤羽の顔を見て絶句した。
赤羽は少し不機嫌そうにいつものため息をついて、君が見たがったからだと言う。
まじまじと見たヒル魔は、ビミョー。と言い残してバスルームに消えて、後に残された赤羽は少し切れた。
それからも毎日、いつも通り二人で家を出て、朝も昼も夜も。
その曲は嫌いじゃないと、ヒル魔が言ったのはいつだったのか。
繋がれた右手と左手がほんの小さな二人の変化で。
目を閉じて、耳を澄ませば聞こえてくるのは終わらないSerenade