好きな人ができたらね。
そんな言葉を彼の高性能な耳が拾ってしまったのは全くの偶然だった。
部活の休憩時間中、グラウンドの片隅で鈴音と姉崎がくすくすと笑い合っている。
女という生き物は会話の80%が恋話じゃないだろうか。
教室でも廊下でも、そんな会話しか聞こえてこない。
その分野に対する興味が極端に低いヒル魔は、聞こえた会話を雑音として処理しようとした。
「背が高くて一緒にいて楽しい人で〜。膝の上に座ってお話ししちゃったり」
私しか知らない顔を見せて欲しいな。
そう楽しそうに言う鈴音が、背を向けているヒル魔に視線を送ったことは、当然ヒル魔は知らない。
特に何の感慨もなく、その会話から意識を切り離して脚のテーピングを巻きなおす作業に集中した。
部活も終わって家に帰ると、いつも先に帰っている赤羽が出迎えた。
制服のブレザーをそこら辺に投げながら着替えようと寝室に向かうヒル魔の後ろで
また君はハンガーにもかけず、と赤羽が文句を言うのが聞こえてくる。
基本的に自分の興味のあること以外はおざなりなヒル魔は、赤羽が来るまでは適当に生活していた。
つまり、ギリギリ無精が周囲にばれない程度に。
その生活態度は赤羽が家にいるようになってから若干ましになったとはいえ、まだまだ適当なので
いつも赤羽はヒル魔が散らかした端から片づけを繰り返している。
あくびをしながら服を着替えて、二人で向かい合って食事をして、少し赤羽と会話した後シャワーを浴びに席を立った。
そうしてヒル魔が白いワイシャツを着て髪を乾かして戻って来た時、赤羽はソファーの上で静かに資料をめくっていた。
『好きな人ができたらね。』
ふと昼間の会話を思い出す。
ソファーに座っている赤羽の整った横顔を、キッチンでコーヒーを淹れながら眺めるともなしに見ていたのだが
何故今そのセリフを思い出したのかヒル魔には分からない。
ただ、その会話の続きまでを思い出すに当たって、ちょっとしたいたずら心が生まれてきた。
『私しか知らない顔を見せて欲しいな。』
コーヒーもそのまま放置して、ヒル魔は赤羽の前に立ち
赤羽が持っていた資料を無言で取り上げる。
相変わらずのポーカーフェイスで赤羽がヒル魔を見上げるが、ヒル魔は何も言わず
おもむろに赤羽の膝の上に跨るように座り込んだ。
どんな反応を返すかとヒル魔は赤羽の顔を覗き込むが、赤羽は表情を変えずに
どうかしたのかと聞いてきた。
面白くねーな。
ヒル魔は内心で舌打ちして、そっけなく「別に」と答える。
いつもあまり感情を表に出さない赤羽が、動揺するところを見たかったのだ。
ところがこうしてヒル魔の方から、滅多にないほど近づいても赤羽は平然としている。
少しがっかりして目をそらすと、丁度赤羽の手がさり気なくソファーに立てかけてあるギターへと伸びるところだった。
動揺、してんのか?
気を取り直したヒル魔はギターに伸びる赤羽の手を掴んで動きを止める。
「ヒル魔?どうしたんだ」
「・・・なんでも、ねぇよ」
そのまま赤い目に近づいても見る限り動揺の色は浮かんでいない。
見つめあったまま沈黙が流れ、ヒル魔は掴んでいた赤羽の手を強く握りなおす。
その深いブラウンの瞳で、触れ合いそうなほどの近さから赤羽の切れ長な赤い目を観察した後
すっと通った鼻梁から薄い唇へと視線を移す。
呼吸も普通、特に汗をかいているわけでもない。声もいつも通り。
んー、わっかんねぇな。
いまいち変化が見られない赤羽の顔から、さらに視線は綺麗に筋肉のついた首筋へと辿りついた。
いつも彼が着けているクロスのネックレスを見やって、もしかして心拍数は上がっているかもしれないと思い当る。
手を離して、胸に耳を当てて音を聞いてやろうとした時
まったく前触れもなく赤羽がヒル魔を抱きしめた。
「っなにして・・・!」
抗議の声も半ばに、あっという間に世界が反転してソファーに押し倒される。
強く抱きすくめられ身動きが取れない。
「この、糞赤目!離せ!」
逃れようと身をよじっても、悲しいかなびくともしなかった。
しかも次の瞬間ヒル魔は頬にぷに、とした感触を受ける。
まさか、
思った時には時既に遅く、赤羽に思う様頬ずりをされた。
「ちょ、馬鹿!止めろっ!っぎゃー!!」
思わずヒル魔が取り乱そうが赤羽は気にせずうりうりとヒル魔の頬を堪能している。
「ヒル魔っ、君はどこまで僕を困らせるんだ」
感極まった様子で言われても、困らされているのはヒル魔だ。
っざっけんなと怒声を上げた時、ふと身体を締め付ける圧迫感が消えた。
やっと離れ・・・
そう思ったのはつかの間で、赤羽に両手でがしっと顔を固定され、口付けられた。
「んんっ!?」
高めの熱を感じて反射的に逃げようとしても動けない。
息苦しさを感じて少し開いた唇からするりと舌が忍び込んできて、ヒル魔はカラダごとびくりと固まる。
極まれに触れるだけのキスはあったけれど、こんな風に深く求められたのはこれが初めてだったのだ。
普段の落ち着いた赤羽の態度とは裏腹に、熱っぽく口角をくすぐられ薄い舌先をなぞられる。
酸素が欠乏して強く瞑った目の奥がチカチカと点滅してきた。
強張っている舌を溶かすように舐められて、それは柔らかく気持ちがいい。
ぼんやりとした浮遊感を感じ、知らずにヒル魔は肩の力を抜いた。
赤羽は支えていた手を離して細い金色の毛を梳くように何度も撫でる。
安心したように身を任せる腕の中の存在が、ただ愛しかった。
ずいぶん長い事キスをしている気がする。
ようやく赤羽が離れ、ヒル魔は静かに息を吐き出した。
震えるような吐息は熱を帯びていて、今しがたの口付けの余韻を思わせる。
ヒル魔の桜に透けるような頬を手の平で包むと、ほんのわずか
その手に擦り寄るような動きを見せた。
恐らく本人も無意識であったその行為が自分を受け入れてくれているようで。
もっと触れたいと、そう思った。
ヒル魔が目を開けると、丁度赤羽はヒル魔の肩口に口付けを落とすところだった。
くすぐったいような感覚に身じろぎをするけれど、やはり自分の力では赤羽は少しも動かせない。
まだ普段のキレを取り戻せずに、どうすべきかとぼんやり考えていたが
白いシャツの上から鎖骨の辺りに口付けられた時、はたとこのままだと犯られてしまうのではと思い当たった。
混乱気味になりながらも頭はフル回転を始める。
まずはこの状況を受け入れるべきなのか、それとも拒絶すべきなのか。
そもそも自分たちはキスを交わすくらいなのだから、世間一般的に付き合っているとかそういう関係だ。
ならばこの先の行為も遅かれ早かれいつかはするのだろう。
え、じゃあいっか。
あっさりと軽い結論が出た。別に、Sexくらい誰でもするだろう。
なんか巧そうだし、どうせ止まんねーだろうし。
同じ男として、ある意味止まらない状況というのは理解できるし
まー世間では皆していることだしと、自分を納得させる。
しかし世間で皆がしているのは男女間のそれだという発想が浮かばなかったあたり
ヒル魔も落ち着いているように見えてそうでもなかった。
赤羽の長い指が金色の髪をかき上げる。
そっと、掠めるようにヒル魔の長い耳に口付けられた時
ヒル魔の意に反して首筋がかくんと跳ねた。
「〜っ!!?」
声こそ上げなかったものの、頬にかっと赤みが差す。
なんと言うか思ったより、いや、思った以上にこれは恥ずかしい。
そうだなんて結論を出したのだろうか、自分も男だし相手も男だし
組み敷かれている以上、自分が受身にならざるを得ない。
その場合に自分がやることは普通のSexの内容とまさに180度違うのだ。
少し触れられただけでこんな醜態を晒してしまうようでは、この先イロイロなんてとても無理だ。
申し訳ないがここは丁重にお断りすべきではないか。時期尚早すぎる。
光速演算で結論をひっくり返したヒル魔は改めて自分にのしかかる赤羽の肩を押してみた。
しかしやはりびくともせずに徒労に終わる。
これは赤羽に諦めてもらって自主的にどいてもらうしかない。
不本意とはいえ自分から誘う形になった上に結局拒絶する罪悪感を感じながら、意を決して口を開く。
「ちょっと、待てって!これ以上は、」
「ヒル魔。悪いが僕は止めるつもりはない」
「なっ・・」
流石に予想外なセリフが帰ってきてヒル魔は焦る。
赤羽は続けて君の可愛さがクレシェンド的なセリフを吐いていたようだがヒル魔はそれどころではない。
そんなに強引なタイプに見えなかったのにと心中で嘆いてみても始まらないから
次なる一手をはじき出すのに忙しかったのだ。
赤羽の指がヒル魔のシャツのボタンにかかる。
慌ててヒル魔が止めさせようと手をかけても止まらない。
これは、もう。
「赤羽。てめぇがそんな奴だとはな」
「フー、僕は君の前で自分を偽った覚えはないが」
「へぇ、そっか。知らなかったぁ」
「・・・・何が言いたい?」
「別に、ただ」
「ただ・・・?」
「俺、てめぇとは音楽性が合わねぇな〜」
室内を稲妻が走った気がする。
赤羽はぴたりと動きを止め、絶句してしまった。
「いや、こっちの話だけど?で、止めるつもりないんだっけ?はぁ、そんな強引な奴だとはな〜」
「ヒル・・・」
「俺の意向、超無視?そんな手が早いとはねぇ。あーそれさえなければ音楽性合いそうなのに」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・不協和音でよければどうぞ?やれば?」
やけ気味に痛む胸を張って赤羽を見上げると、赤い瞳が丸くなってしまっている。
あまりに衝撃を受けた様子の赤羽に、言い過ぎたかとヒル魔は内心で焦った。
赤羽はしかしすぐに上体を起こしヒル魔の上から降りる。
押さえつけてた重みが消えてほっとしたのもつかの間、赤羽は立ち上がって玄関に向かってしまった。
「お、おい、どこ行くんだよ」
「・・・フー・・・ちょっと、出てくる・・・」
そう返事にならない返事を返してどこかに行ってしまう赤羽。
開放感よりも罪悪感に苛まれながら居住まいを正したヒル魔は、赤羽が置いていったギターの弦を指でびしびし弾きながら
彼が帰ってきたらもう少し優しくしようと思ってみたりした。
ヒル魔が殊勝だったのはほんの5分ほどで、生来切り替えの早い彼はダレてソファーでゴロゴロしながら雑誌を読んでいた。
時計を見上げると日付も変わりそうな時刻、もう赤羽が出て行ってから1時間は経っている。
流石に帰りが遅いことに気がついてメールでも入れるかとソファーから起き上がった。
携帯を手に取る前に、タイミングよく鍵穴に鍵を突っ込む音が聞こえてきたので
少し安心してそうそう優しく優しくと呟きながら玄関まで迎えに行ってみる。
しかしヒル魔はドアを開けて入ってきた赤羽に思わずぎょっとして後ずさった。
赤羽は、何がどうなったのか巨大な紅い薔薇の花束を抱えていたのだ。
その花束は予想通りヒル魔にへと押し付けるように渡される。
思わず受け取ってしまったヒル魔はもはや突っ込むことさえできず唖然と赤羽を見上げた。
「フー、やはりよく似合う。僕の謝罪のメロディだ、受け取ってくれ」
一体自分は赤羽の目にどう映っているんだろうか。
まさか紅い薔薇の花束が似合うような可憐な存在だと認識されているのだろうか。
そらぁ、押し倒されるわぁ俺・・・。
目の前でヒル魔をト音記号に例えながらとうとうと謝罪を謳い上げる全てが理解不能な赤羽に
返す言葉もなかったヒル魔は「や、優しく・・・、」と虚しく呟きながら途方に暮れて棒立ちだった。
24時間営業の花屋を3件ハシゴしてありったけ購入された紅い薔薇は
ついでに買ってきていた花瓶に活けられてしばらくモノトーンのヒル魔の家に色彩を与えていた。
やがて全て涸れ落ちる頃、何を思ったのか赤羽にまた買ってこようかと聞かれたので
ヒル魔は少し考えてから紅いのはてめぇだけで十分だと答えた。
思わず微笑を零した赤羽は、満足そうにそうかとだけ言って
ギターを一度、いつものように強く弾いた。