朝起きて朝食を取った後、赤羽が黙って飛行機のチケットを差し出してきた。
テーブルの上に置かれた二枚のそれは今日の昼前の便で、ずいぶん急な話だとヒル魔は思う。
赤羽は何も言わなかったけれど、ヒル魔は時計を見て小さく伸びをしてから寝室に引っ込んだ。
クローゼットから白いコートを引っ張り出してきて、少し考えた後に色の薄いサングラスをかける。
雪がまぶしいだろうと思ったからだ。
髪は今更立てる必要もないから簡単にワックスを馴染ませただけで寝室を出ると
赤羽は既に黒く重目のコートを羽織って待っていた。
「とても、寒いかもしれない」
そう言う赤羽にふぅんと気のない返事を返すと、彼は少し笑って手を差し出した。
その動作にヒル魔は一つ舌打ちをして手を重ねる。
12月の空は澄み切っていて空気は刺す様にまぶしく硬かった。
たまに強く吹きすさぶ風が頬にぶつかり髪を舞い上げて熱を奪っていく。
振り仰いだ視線の先、真冬の太陽は冷たい熱を帯びて静かに白んでいた。
急ごうか。
そう言って赤羽はすぐにタクシーを捕まえる。
ヒル魔は黙って彼の後に続いた。
「飛行機は大丈夫かい?」
タクシーのシートでぼんやりと窓の外の景色を眺めていたヒル魔は振り返って赤羽の顔を見る。
「僕は少し苦手なんだ。合理的なことは認めるが、あまり好きではない」
幼い頃から親の転勤が多く、よく飛行機を利用していたせいかも知れない。
珍しく饒舌な赤羽の話にヒル魔はじっと耳を傾ける。
「別れの象徴みたいに思っているのかもしれないね」
空港に着くと赤羽は二人分のチェックインを済ませてしまった。
以前、夏合宿で来た時は部員全員のチケットから荷物まで大抵の手配は主将であるヒル魔がまとめてやったし
それについて別に何も思わずむしろ当然のことだと思っていた。
けれど今、こうして彼に何でも任せてしまうと、改めて誰かに頼るということはとても心地いい。
楽だとかそんなことじゃなく、きっと任せても大丈夫だと思える相手と一緒にいることが重要なファクターだと
無意識にでも思ったのかもしれない。
二人とも軽装で、せいぜい財布くらいしか持っていなかったから搭乗手続きも簡単だった。
ヒル魔はいつものパソコンも銃も携帯すらも置いてきてしまっていて、赤羽も今日はギターを持ってはいない。
手荷物検査のゲートを通り過ぎて搭乗口まで向かう。
乗り場まで結構距離があったけれど、隣を歩く赤羽が急ぐ様子もなかったのでヒル魔も歩調を合わせて歩いていた。
エントランスは天井こそ低いものの、壁は一面ガラスになっていて開放的だった。
大小さまざまな飛行機が搭乗橋に横付けされていたり、まさに飛び立とうと速度を速めて滑走している。
「ポケモンジェットってまだあんのな」
見るともなしに窓の外を眺めていたヒル魔がふいにつぶやく。
赤羽がヒル魔の視線の先を追うと、機体の後部に可愛らしいキャラクターが描かれたジャンボジェットが丁度離陸しようとしているところだった。
「僕が小学生の頃からずっとある」
「GLAYジェットとかもなかったか?なんか騒がれてたのだけ知ってる」
「懐かしいな。7年ほど前だった」
赤羽は少し目を細めて思い出すように言葉を紡いだ。
「丁度その頃だ。僕が東京に来たのは」
搭乗口に着くと機内への案内が始まったところだった。
長い搭乗橋を超えて機内に乗り込み着席する。
荷物もないし、何もない、とても気が楽だった。
エンジンが始動して機体が細動する。
小さな窓の外を見ていたヒル魔は、ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべて振り返り赤羽の耳元に唇をよせて囁いた。
「ヒコーキ。怖えーなら手ぇ握っててやろうか?」
からかうような口調に赤羽は微笑を返して、お返しとばかりにその大きな手でヒル魔の頭をぐりぐりと撫でた。
少し強めのそれにくすぐったそうに身をよじってヒル魔が小さく笑う。
髪を乱す赤羽の手を捉えて右手に押さえ込み、左手で乱れた髪を掻き揚げた。
そうして手を繋いだ後、ヒル魔はもう何事もなかったように窓の外に視線を戻す。
それは彼の興味が移ろいだ訳でもなく、単にどうしていいのか分からない故の行為だと赤羽には分かっていたので
繋いでいた手に少し力を入れてそのまま静かにヒル魔の横顔を見つめていた。
『皆様、本日もANAをご利用下さいましてありがとうございます。この便はANA 853便、函館行きでございます』
お決まりの機内アナウンスが流れる。ガタガタ音を立てて機体が滑り出し、機内の大型スクリーンには滑走路の様子が映し出された。
『到着地の気候は雪、気温はマイナス1.2度でございます』
ヒル魔は掛けていたサングラスを外し、コートの内ポケットにしまいこむ。
小さな窓から射し込む東京の光は昨日までと違う色をしている気がした。
「北海道には行ったことねぇ。つか、雪とかあんまり見たことねぇし」
「ずっと東京?」
「まぁな。田舎とかもねぇし。関東以外でどっかいったのはアメリカと修学旅行で奈良に行ったくらいだな」
「ベタだな。僕は京都だった」
「てめぇもベタじゃねぇか。京都より奈良の方がいいだろ。鹿とかいるし」
「鹿は別に、」
「なんだよ鹿は首が180度曲がるんだぞ」
「そうか・・・凄いな」
赤羽が素直に感心したのでヒル魔は満足げに脚を組みかえる。
機内では離陸を知らせるチャイムが4度鳴り響き、最後の離陸アナウンスが流れた。
急加速によって体がシートに押し付けられる。
ふわりと機体が浮かび上がる独特の感覚が離陸を告げた。
飛行機はあっという間に高度を上げ、窓から見える空港に停まったままの飛行機がミニチュアのよう。
遠ざかる地上に目をやりながら、ふとヒル魔は今まで自分が赤羽とどんな会話を交わしてきたのだろうかと思った。
おざなりにしてきたつもりもなかったし、赤羽が傍に居るようになってからも自分のペースが狂ったことはない。
ただ、やるべきこと、やりたいこと、全てが山積みになっていてそれを夢中でこなしてきた。
そして追っていた。目標を、ゴールしてしまった先のことなんか何も考えずに。
そんな日々はいくらでも思い返せるのに、どうしてだろうか。
彼といつも何を話していたのかあまり思い出せない。
それは日常に埋没してしまうような他愛もないことばかりだったからかもしれないし
自分の本来の限界を超えて過ごし続けてしまったせいで、日常の記憶が飛んでしまっているのかもしれない。
記憶力の良さには自信があったのにと、ヒル魔は外を見つめながらぼんやりと思った。
小さな窓の外は果てしなく白い雲のグラウンドが続き、青と白の2色だけの世界が広がっている。
「なぁ」
赤羽の方を振り返り、ヒル魔は口を開く。
「ギター持ってこなくてよかったのか」
「ああ、今日は必要ないだろう」
「なんで」
なんで?
彼は面白そうに繰り返す。
一つ瞬いてヒル魔をじっと見つめた。
「折角君が、僕の方を向いてくれているというのに」
逃がした視線の先には、空と雲以外、何もない。
着陸態勢に入ったアナウンスが流れ、ベルト着用を請うチャイムが響く。
高度を下げて雲を抜けた先の景色にヒル魔は少し身を乗り出すほど魅せられた。
映像として知ってはいたけれど、一面深い雪景色というのを実際に目にしたのはこれが初めてだったのだ。
「白・・・」
近づく地上を見つめながら思わず漏れた呟きに、赤羽は黙って微笑を返した。
除雪されているとはいえ、降り続く雪がかすかに残る滑走路に降り立つ。
ジェットの気流に巻き込まれた雪が一瞬で水滴に変わり、竜巻のように渦巻きながら窓の外を激しく舞っていた。
ほぼ定刻通りに到着のアナウンスが流れ、降りる乗客が通路に溢れる中
着席したままのヒル魔は窓の外をじっと見つめている。
「何か面白いものでもあったかい?」
「雪」
「雪?」
「本当にこんなに積もってるんだな」
「東京では雪すら滅多に降らないから珍しいだろう?」
赤羽は繋いだままの手をそっと引き寄せ立ち上がった。
「行こうか」
降り立った空港は新しく綺麗で、ヒル魔が思っていたよりも広かった。
黙ったままロビーを見渡すヒル魔に赤羽は何も言わない。
それはヒル魔の癖のようなもので、彼は普段からどのような場所においても周囲を観察し分析する。
そうして蓄積された膨大なデータは彼が彼の路を走り抜けるために必要なものなのだ。
電車に乗るために、空港に直結している駅に向かう。
雪の名残を残しながらホームに滑り込んできた冷たい車体に乗り込んで空いている席に座ると
座席の下から異常なほどの熱風が出ていて少し熱いくらいだった。
列車は新幹線のように2列の座席が並ぶ作りで、コートを脱いで窓際に座ったヒル魔は窓に目を向ける。
窓には雪が付着して凍り付いていた様だが、すでに中央から溶け始め幾筋も細く滴っていた。
良く見ると窓の端の方には、滴り落ちた水滴が外気で冷えて再結晶した跡も見られる。
車体が暖かな地下へと潜り、また極寒の外へと走り出す繰り返しの中で、日がな一日融解と凍結を繰り返しているのだろうか。
乗り込んだ列車はしばらく後、ゆるゆると走り出す。
真っ暗な地下を走り抜け、すぐに地上に出て窓の外が明るく切り替わった。
線路の両サイドには防雪用の雪堤がそびえ窓から見える景色の下半分を占めている。
その奥には背の高い建物が泡立てすぎた生クリームの様な雪を被っているのが見えた。
車内から見上げた空は雪こそ降ってはいなかったが、分厚く灰色の雲が重たそうに広がっていて
地に積もる雪の艶めく様な白さと対照的に憂いを含んでいる。
「なんか白っぽいな」
街中雪に埋もれているのだから当然なのだが、ここまでの豪雪を実際に目にしたことのないヒル魔にはそれが素直な感想だった。
ふいに振り返り、赤羽の赤い髪と赤い瞳をマジマジと見る。
「何?」
「いや、てめぇなんか外歩いてたらさぞかし目立つんだろうな」
「見失わなくていいじゃないか」
「つか、よく待ち合わせの目印とかにされてただろ」
「フー・・・僕は子供の頃から赤い髪だったわけじゃない」
「・・・・・・何色?」
「普通に、黒」
「想像できねーっ」
そう言って笑うヒル魔の髪に赤羽は指を絡めた。
「僕だって君が黒髪なところは想像できない」
「俺はいーんだよ」
笑いながら赤羽の手をどかす。
一瞬触れたその手はとても暖かかったけれど、ヒル魔に名残はなかった。
窓から見える景色はすでに雪堤と灰色の雲だけになっている。
都心を離れたため、高い建物がほとんどなくなってしまったせいだ。
「時間通りに着けばいいけど」
「別にそんなに急いでもいねぇんだろ」
「それにしても、雪が凄いと徐行して1時間以上遅れたり、ざらにある」
「一時間?どうしろっつーんだよ」
「諦めてくれとしか・・・」
「だって電車だろ?車とかバスの方が早いのか?」
「いや、バスなんてもっと酷いな。誰も時刻表をあてにしない」
「それ意味あんのか?」
「・・・まぁ、乗る予定のバスが遅れていても、予定より一本前のバスも遅れていい具合に到着したりするから。運次第だな」
「心広いな」
「いき急ぐ必要なんかない」
返された言葉にヒル魔は黙り込む。
恐らく赤羽は行き急ぐというニュアンスで言ったのだろうけど、ヒル魔には生き急ぐと聞こえた。
ゴトリと列車が酷く揺れて、ヒル魔は目を開けた。
一瞬今まで自分が何をしていたのか分からなくて、意識的に瞬きを繰り返す。
いつのまにか眠っていた様だ。
電車でうたた寝をするなんて、どんなに疲れていてもこれまでなかったことなので少し驚いた。
「疲れた?」
会話の続きのように話しかけられて、ヒル魔は視線だけ赤羽に投げる。
別に。と短く答えた後、寝てたからと付け足した。
次の駅が終点で、そこで降りると聞いてヒル魔は改めて窓の外を見やった。
あの雪堤はもうなくて、開けた視界の先になだらかで真白い地平線が広がっている。
何もない、いや、あるのかもしれないけれど何もかもを雪が覆い隠していた。
ゆるゆると列車が減速してホームに滑り込む。
そのホームは小さく簡素な作りで、今にも雪に押しつぶされてしまいそうなたたずまいだった。
コートを羽織ながら立ち上がると降車ドアが開いて、冷気が塊のように吹き込む。
雪積もるホームに降り立つと空気が冷たすぎて一瞬呼吸が止まるような感覚を覚えた。
本州よりも滑らかに澄んだ空気はスルスルと分厚いコートや靴を侵食して急激に熱気を冷気に染めていく。
「ちょっと舐めてた」
「何?」
「なんか寒さの質が違う」
白い息を吐き出しながらヒル魔が言う。北海道の寒さは東京で感じる寒さと質が異なる。
底冷えする様な、足元から冷気がにじり寄ってくる様な寒さなのだ。
歩き出そうとしたヒル魔に赤羽は手を差し出した。
「何だよ」
「手を。雪道を歩いたことはないんだろう?」
「東京にも雪くらい降るんだよ」
そう噛み付くヒル魔に、赤羽はしごく真面目な顔で切り返す。
「しかしヒル魔、君が僕の横で派手にスッ転んだら、僕はどんな顔をしていいのか分からない」
「転ばねーよ!つか、そういう場合は普通笑うだろ、笑えばいいだろ。あ、待て、それなんかむかつくな」
自分で言ってちょっとムッとしているヒル魔の手を赤羽は無理やり捕まえる。
「フー・・・冗談抜きに、本当に危ないんだ。地元の人間だってしょっちゅう滑るくらいだから」
そうしてもう、赤羽はヒル魔のいう事には耳を貸さずに歩き始める。
ヒル魔は文句を言うのを諦め、手を引かれて渋々と踏み固められた雪のホームを歩いた。
自動改札を出ると、雪は今にも止みそうなほどかすかに舞い降りてふわふわと視界に踊っていた。
駅の前は小さな広場のようになっていて十字に路が伸びている。
正面の路にアーケードのついた商店街の入り口があったが、とても短いようで反対側にある出口まで見通せた。
駅の壁際や広間の端にいくつもの小さな雪山が並んでいる。除雪した雪を積み上げているようだ。
赤羽はコートのポケットから手袋を出してヒル魔に渡すと雪道の歩き方を教えた。
「歩く時はつま先で蹴って踵から着地するんだ。重心は前に」
手袋をはめた手を差し出しながらヒル魔は赤羽を見上げる。
「で、スッ転ぶ時はどうしたらいいんだ?」
「絶対無理にバランスを取ろうとしてはいけない、必ず体を痛めるから。諦めて転んでくれ」
「・・・分かった」
「それから」
まだなにか?
不機嫌そうに片眉を吊り上げてヒル魔が続きを待つ。
ヒル魔の手を取ってゆっくりと歩き出しながら、赤羽は転ぶ時は両手を地面につくように
手はポケットから出しておくようにと念を押した。
「ちょっと待て、じゃあ手を繋いでいるのは何なんだよ」
「少しバランスを崩したくらいなら支えられるから。だけど、本気で危なかったらすぐに手を離して」
「意味ねーな」
「気にしないでくれ、僕の趣味みたいなものだ」
ヒル魔は実に久しぶりに絶句するという体験をした。
固められた雪の上に柔らかく粉雪が積もっている。
踏みしめると砂浜を歩くようなキュッとした感触が足に伝わった。
目線を落として黙々と路を歩く。
正面にあった100メートルほどの短い商店街を抜けると、いよいよ雪原が広がっていた。
除雪され積み上がった雪に埋もれるように住宅が点々と並び、各家に延びる木の枝のような踏み固められた雪道が
この地に住む人々の存在を感じさせる。
人通りは全くなく、たまに吹く雪を切るような風の音しか聞こえなかった。
この時期は寒いので、人々はみな家に篭っているという。
歩いていく道すがら雪だるまや木の板を屋根にしたカマクラがいくつもあり
雪に刺さったままのプラスチックのスコップやバケツにも粉砂糖をまぶしたように雪が積もっていた。
雪はもう止んでいて、分厚かった雲は薄くまだら模様を描いている。
「北海道出身?」
明るみを帯びてきた雪に目を細め、ヒル魔はコートから取り出した色の薄いサングラスをかける。
「そうなるかな。でも僕の両親は関東出身だ。たまたま僕が生まれる時に仕事で北海道にいたんだ」
本州に戻ってからは関東や東北地方を中心に1、2年単位で転校を繰り返していたと言う。
「結局、関西には行きそびれてしまったけどね」
足元に注意しながら歩いているからか、ヒル魔はずっとうつむき加減でその表情は赤羽には分からなかった。
「もしも、」
「もしも?」
ヒル魔が仮定の話をするなんて珍しかったから、若干の驚きを持って赤羽は聞き返した。
ヒル魔は構わずに目線を落としたまま、髪に積もった雪を乱雑に振り払う。
「もしも、てめぇが関西に行ってたら、クリスマスボウルで対戦だったかもな」
「遠慮したいところだ」
赤羽は表情も変えずに立ち止まってヒル魔に手を伸ばし
細い金髪に絡む残雪をそっと払いのけた。
「自信ねぇのかよ」
顔を上げたヒル魔の青みを帯びた瞳は、薄いブラウンのグラスにさえぎられて尚キラキラと光っている。
「そうしたら、僕が君に出会うのが遅くなってしまうじゃないか」
ヒル魔は露骨に嫌そうな顔をする。
「引いた?」
「・・・まだ想定の範囲内」
「そう」
北からの冷たい風が強く吹き抜けて、赤羽の黒いコートの裾を大きくはためかせた。
ヒル魔は風の吹いてきた方角に視線を向ける。
眼前に遥か広がる雪原には足跡ひとつなく、切れ切れの雲の隙間からわずかに漏れる夕刻の色づいた光に反射して空よりも輝いていた。
人口的なものではなく、ただ必然として存在する自然の美しい景色は
確かに東京にもあったような気がするけれど、もう何年も見た記憶がないとヒル魔は思う。
そもそも、今自分がこの光景を美しいと認識していることすら信じられない。
足元から忍び寄る寒さに容赦なく体内まで侵食されながら
ヒル魔はそれでも立ち止まったまま長いことその光景に魅入っていた。
雪国の圧倒的な白さは、初めて見たというのに何故か懐かしさの感情すらも喚起させた。
遠くから鐘の音が響いてくる。
それは近くにある小学校から聞こえてくると赤羽が教えてくれた。
彼は自分の赤い髪に積もっていた雪を払ってヒル魔の顔を覗き込む。
「わがままだと思うけれど、君と一緒に、もう一度ここに来たかった」
いつのまにか日が傾いて周囲はオレンジ色の陽に神々しさを帯び
さめざめと澄んだ空気を刺すような風が雪を震わせる。
ヒル魔を見る赤羽の赤い瞳も、雪明りに照らされていよいよその赤みを増し
冷静な彼の抱く密やかな想いの篝火のようだった。
「何で今日だったんだ?」
ヒル魔はずっと気になっていたことを聞く。
今朝、チケットを渡されてからヒル魔は詳しい行き先もその理由すらも聞かなかった。
行きたいから行くんだろうとしか思えなかったからだ。
けれど、何故彼が今日を選んだのかだけは不思議だった。
これだけの行動力があるのなら、もっと前に連れて来てもよさそうだと思ったのだ。
「もしかしてクリスマスだからとか抜かすんじゃねーだろうな」
ヒル魔が黙ったままの赤羽を見て眉をひそめる。
まさか。彼は呟いて繋いでいた手を離し手袋を外すと
暖かな指先でヒル魔の凍りついたように冷たい頬に触れた。
「日付に意味はない。ただ今日は君の夢が叶った、その翌日だというだけだ」
赤羽の指は人肌の温かさを持っていたけれど、凍りついた頬には熱すぎて痛みすら覚える。
「君はまた、次の目標を目指す。走り出してしまったらもう僕には何もできない」
何となく、続く言葉に予想がついてヒル魔は視線を赤い雪原へと逃がす。
触れたままの指先はまだ温かく、もう痛みはないけれど。
「だけど、せめて今日くらいは、君は立ち止まって僕を見てくれるんじゃないかと思ったんだ」
目を伏せ、ヒル魔は赤羽の手を掴んで頬から引き離した。
外気に晒された彼の指は、手袋越しには何の温度も伝えてはこなかった。
自分が今まで目指していたものは、場所は、身の丈に合わない夢だったのかもしれない。
それでもどうしても叶えたかったから、なりふり構わずに進んで来た。
息が切れようと、足を止めることもなく
振り返ることもなく。
その結果生じた歪みは確かにあって、それすらも受け入れて来たつもりだった。
ぶつけられる誰かの感情と共に。
でも、本当は違うのかもしれない。
もしかしたら自分は、ただ全て切り捨てて全て忘れて顧みもせずに
淡淡と過ごしてきたのではないのだろうか。
例えば今、自分の目の前にいる人間さえも犠牲にして。
他人を脅して、巻き込んで、従事させる。
結果として本人のためになったこともあったけれど、それでも今、自分が踏みつけてきた人々は何を思うのか。
もう、自分には思いを返すことしか出来ないけれど。
悔いることも頭を垂れることもなく、ただ沈黙を捧ぐ。
痛みを伴うからこそ愛しい記憶たち。
願うものを手に入れた今、穏やかに悼むべき数々の記憶が
風に吹かれ舞い上がる粉雪のように、心にふわりと浮かび上がった
夢中で走っていた時には受け入れられなかったものを受け止めて。
次はきっと、もっと上手く立ち回れるように。
また走り出そうとするのなら忘れてはいけない。
誰も傷つかないで済むようになんて、絵空事であろうとも。
暗く赤い陽の中で、赤羽はヒル魔の青みを帯びた瞳に浮かぶ感情をずっと見つめていた。
その不安定な瞳の揺らぎさえも彼は乗り越えて行くのだろう。
それは忘却でも傲慢さでも、まして事実を直視できない弱さでもない。
心が強いということ。
痛みを感じないことが強いというわけではない。
肝心なのはそれに囚われないことだ。
生きるにつれ降り積もる雪のようにいや増す痛みを、過去を、背負い何度でも歩き出す。
それこそ人の生を謳歌し全うする強さ。
今まさに一筋の残光を残し堕ち逝く緋は、どこかで粛粛と朝を再生する。
繰り返す尊い自然の営みに似た彼の生は、耐え難いほどに美しい。
「馬鹿みたいに走ってばっかで、でも俺はきっと似たような事を続けるんだろうな」
赤羽は自分の手を捕まえているヒル魔の手をそっと握り返す。
誰よりも鮮烈に生きるというのならば、誰よりも深い痛みを抱えて逝かなければならない。
「立ち止まることも、また走り出すことも口にするほど安易じゃない」
「俺は出来ねぇことは口にしねぇ主義なんだよ」
「知っている」
空から明かりが消えて周囲には夜の気配が濃密に漂う。
「君のその強さを、出来るならば僕は一番近くで見ていたいと思う」
彼の指先から与えられた熱は痛みを感じるほどだったのに
きっと今は氷のように冷たくなっているだろう。
ヒル魔は片方の手袋を外すとその手を赤羽の手と繋げる。
芯まで冷え切った彼の冷たい指に絡めるようにすると、赤羽は少し笑って戻ろうかと言った。
日の落ちた冬の寒さは一瞬で熱を奪っていったけれど、触れ合った手の平だけはいつまでもずっと温かかった。
駅を超えた先にある小さな2階建てのホテルにチェックインして遅めの夕食を取り
ヒル魔が先にシャワーを浴びて時計を見ると夜の10時を回った頃だった。
シャツを1枚羽織っただけの格好であてがわれたシングルベッドに腰掛けて
防寒のため2重に設置された窓ガラス越しに外を眺める。
外は雪明りで驚くほど明るく白んでいて、いつの間にか降り出した粉雪が大気を覆っていた。
冬の間、果てることなく降り続く饗宴の雪は静かに昼を夜を賛美して清らかに舞い踊り生を謳歌する。
あるいは、賛辞に逝き溺れることなく滔滔と在りし姿で地に帰り天に逝く永遠の繰り返しこそ
恭順と諦観の末に辿り着く生そのものだろうか。
本来無機であるはずの雪から、何かしらの有機的な意味を探ってしまうのは感情を持つ人間だけの性。
ヒル魔は無駄に考えることを放棄してただ雪を眺めた。
どれくらい時間が経ったのか分からないが、バスルームから赤羽が戻ってくる。
彼は相変わらずきっちりと身なりを整えていて、ベッドの上でシャツ1枚のヒル魔を見て眉をひそめた。
いくら暖かな室内とはいえやはり寒い。
じっと雪を見つめるヒル魔に黙ってリモコンを手に取り室温を上げる。
「疲れただろう。今日はもう休もう」
ヒル魔はようやく赤羽の方を振り返り、頷いて同意した。
自分のベッドにもぐりこんで、電気を消そうとサイドテーブルに手を伸ばしたところで
ヒル魔がベッドから降りたのが見えた。
彼は何故か仁王立ちで不機嫌そうに腰に手を当て、寒い、と言って赤羽を見る。
もう少し室温を上げようとリモコンを手に取ると
ヒル魔はこれ以上温度を上げると眠った後に暑くなると文句を言う。
彼が何を言いたいのかしばらく考えた赤羽は、とりあえず一つしか出なかった結論を言ってみた。
「こっちにおいで。二人でいれば温かいと思うから」
ヒル魔は嫌そうな顔をしたけれど、黙ってシーツにもぐりこんでくる。
両手で赤羽の胸をぐいぐいと押して少しどかすと、今まで赤羽が暖めていたベッドの真ん中に納まった。
そうして満足げに体を丸め、赤羽の肩に額を押し付けるようにして目を閉じる。
洗いざらしの細い金髪がサラサラと赤羽の首筋を撫でて、くすぐったく感じた。
毛布をかけなおしてからそのふわふわした髪を掻きあげると、ヒル魔は目を開けて赤羽の顔を見上げる。
その目はいつものようにキラキラとした熱を持っていて、ひとつ瞬くごとに色味が変わっていくような不思議な色をしていた。
引き寄せられるように唇を重ねると、珍しくヒル魔の手が赤羽の背に回される。
シャツ越しに手の平を滑らせたかと思うと、すぐにシャツの内側にもぐりこみ広い背に腕を絡めた。
ヒル魔の指先や腕は冷え切っていて、素肌に感じるあまりの冷たさに流石に赤羽が眉をひそめるが
ヒル魔は満足げにあったけーと呟いて熱を奪っていく。
手を伸ばして触れたヒル魔の身体はどこも冷え切っていて、赤羽は口付けながら改めてヒル魔の背に腕を回し抱きしめた。
冷えた細い身体は柔らかくしなって腕の中に納まり、触れ合った部分からゆっくりと温かみを取り戻していった。
空気を震わせるように熱く短い吐息を吐く。
爪の先まで燈るような熱を宿し、それでもヒル魔の腕は赤羽の背に回されたままだった。
「大丈夫?」
震えるまぶたにキスをしながら赤羽が気遣う。
ヒル魔は少しうっとおしそうに目を開けて赤羽を見上げた。
「別に、試合に比べれば」
「大したことない?」
続くセリフを引き取った赤羽を見ていたヒル魔は、少し思案してから
やっぱり試合と同じくらいだと言った。
前を向き夢を追う彼は美しい。
だけど、そうしている限り彼は振り返ることはないのだろう。
生と生の狭間。彼が立ち止まり、その羽を休める一瞬の落日。
彼の濡れたような艶を持つ双眸は今、確かに赤羽の目だけを見ている。
汗ばんだ白く皇かな頬の赤みに頬を摺り寄せると
胸に熱病のような夥しい高揚と痛みが湧き上がった。
愛しいと、思うことすら痛みを伴うというならば
もうずっと前から覚悟はできている。
翌朝赤羽が目を覚ますとヒル魔の姿がなかった。
ヒル魔の着ていた白いコートもなかったから、いぶかしんで自分の携帯に手を伸ばしたけれど
彼は携帯すら置いて来ていたことを思い出す。
とりあえず着替えてから何気なく窓の外に視線を投げると、雪はもう止んでいて朝日が激しく雪に反射していた。
その輝くような雪の平原にもそもそと動くものが見えたので注視すると、白いコートを着たヒル魔だった。
何をしているのかと思えば彼はせっせと雪玉を転がしていて、彼の進んでいる前方には既にひとつ巨大な雪玉が鎮座している。
「ゆ・・・雪だるまを・・・」
それはものすごく衝撃的に心温まる光景だったので
赤羽はとりあえず手に持っていた携帯で写メった。
その後ヒル魔は雪だるまを完成させ、満足げに新雪に座り込んで手近な雪を丸めては
作った雪だるまに投げてぶつけて遊んでいた。
赤羽の携帯のメモリーが限界を迎える頃、ようやく飽きたのかヒル魔は立ち上がり
ぼこぼこになった雪だるまをげしげしと蹴って形を壊す。
平坦になった雪を見下ろしてから何事もなかったようにホテルの方に戻ってきた。
赤羽が戻ってきたヒル魔にどこに行っていたのかと聞くと
ヒル魔は不機嫌そうに散歩とだけ返した。
遅めの朝食をホテルで取って駅へと向かう。
ホテルの前の道はいつのまにか除雪されていて、駅までの道をくっきりと浮かび上がらせていた。
細い道の両サイドにはどかされた雪が積みあがり、低い壁のようになっている。
言葉少なに歩いて駅まで行って、来た時とは反対側のホームに上がると
雪を舞い上げながら滑り込んで来た列車に乗り込んで、行きと同じようにヒル魔は窓際の席に座った。
「フー、帰ったらどうしたい?」
窓辺に頬杖をついて外を見ていたヒル魔は赤羽に視線だけを寄越す。
少し思案する素振りを見せてから、柔らかな微笑を浮かべた。
「とりあえず、」
「とりあえず?」
「アメフトがしてぇな」
深深と音もなく世界を受け入れる白い雪は、冷たく熱を奪い尚、人を魅了して止まない。
やがて春になり、すべての雪が夢のように消えてしまったとしても
またいつか巡り来る冬を覚えている限り、何度でも胸のうちに痛みと安らぎを覚えるのだろう。
さようなら。
どこか望郷の念を呼び覚ます冬の世界。
いつかまた、季節を越えて雪の降る日に逢いに来ると誓った。
さようなら。
走り出した列車に乗って次の夢に思いを馳せる。
夢が叶ったらまたここへ。少しだけ羽を休めるために。
その日までさようなら。