一つ鳴ったノックの音に顔を上げた。
すぐに部室のドアが開かれて、特徴的な赤い髪が覗く。
ヒル魔が何か言う前に、遅かったから迎えに来たと彼は言った。
無言で液晶画面の右下に視線を落とす。
日付が変わってゼロからリスタートされた数字の羅列に思うことはない。
口を開くのが面倒事のように眉をひそめてから静かに言葉を吐いた。
「まだかかるから先帰ってろ」
返されたそっけない台詞を聞いて、赤羽が部室内に足を踏み入れる。
もう彼の存在を忘れてしまったかのようなヒル魔は、再びパソコンのキーを押下し始めてしまった。
時間がないわけじゃない、多分。
得体の知れない澱のようなものが胸に淀んで、それが無闇に気持ちを急かしていた。
金の髪が落ちかかる目元は陰になっているけれど、普段よりも青ざめた相貌は少し疲れているように見える。
透けるような白い肌は病的なまでに透明感を増し、それはヒル魔自身も気がつかない何かのサインのようで痛々しい。
あまり多くを語ることのない赤羽は、彼を慰める言葉や彼の気を紛らわせるような言葉を紡ぎはせず
ただ、全てを拒絶するかのようにパソコンに没頭するヒル魔の横に立ち、一緒に帰ろうと言った。
キーを押下するわけでもなくイライラと表面を軽く爪先で叩きながら、ヒル魔はいっそ怒鳴ってやろうかと思った。
彼はその、彼自身の指先に気がついていない。
「見りゃわかんだろ。まだやることあんだよ、俺の邪魔をする気なら」
「ヒル魔」
強めの口調に台詞をさえぎられて思わずヒル魔は赤羽の顔を見上げた。
夜だというのにグレーグラデーションのサングラスをかけた赤羽の表情はつかみにくい。
わずかに変わった雰囲気に注意も払わず、ヒル魔はその鋭い視線に苛立ちをこめて彼にぶつけた。
「もう一回言う、俺の邪魔をするな」
その言葉で赤羽はいつものため息を漏らした。
彼の長い指が握りこまれたのが視界の端に見える。
殴られるかもしれないと思った。
かまわない。それで気が済むのならさっさと終わってどこかにいけばいいのに。
「もし、君が、今の台詞を本気で言っているのなら。僕が君の邪魔をしに来ていると本気で思っているのなら、僕は君を軽蔑する」
静かに、それでも明確な意思を込めて伝えられた言葉に、一瞬ヒル魔はその蒼い瞳を見開いた。
普段穏やかな彼から予想外の言葉を聞いたせいだ。
しかしそれはヒル魔を揺るがしはしない。
その方がありがたいといわんばかりに皮肉な微笑を浮かべた。
「ご自由に」
拒絶の言葉はなんて容易い。
人は誰だって、望んだ言葉が簡単に手に入るとは思っていない。
どんな謀を駆使しても、それでも他人は思い通りにはならない。
時に吐かれる望まない言葉を聴きたくないと思うのか、それともありのまま受け入れるのか。
それは言葉を紡いだ相手によって違うのだろう。
握りこんだ指先が開かれた。
赤羽は表情も変えずに分かったと呟いて踵を返す。
来たときと同じように静かに部室のドアを開いて出て行った。
ようやく望んだとおりの状況になって、いよいよヒル魔はいらつきを増す。
胸の奥に埃が舞っているようで、妙に熱っぽくて不快だった。
頭を切り替えようと目を閉じて冷えた手の平で額を押さえる。
そして思い出す、今日の、ほんの10時間ほど前の出来事を。
フラッシュバックのように脳裏に浮かび上がる映像。
敗れた夢を。
思わず目を見開いて姿勢を起こした。
一瞬頭が沈み込むような軽いめまいと吐き気を覚える。
関係ないと切り捨てられないほどに異変を呼び覚ます映像。
乱暴に席を立ち早足で部室を出ると、すぐ脇にある水道に向かった。
勢いよく流れる水流に砕ける水滴。
この裡にある澱のようなものを全て吐き出して、そうして全て消えていけばいいのに。
空っぽの胃が刺す様な痛みを訴えて嘔吐感は収まりそうにない。
どれくらいたったのだろうか。
ざぁざぁと絶え間ない水音が脳に響いていて、生理的に滲んだ視界には意味のあるものは何も映っていなかった。
ようやくゆっくりと蛇口を被ねって水音を止める。
緩慢な動作で体を起こして水に濡れた口元をぬぐった。
「ヒル魔」
ふいに呼びかけられて、ヒル魔は動きを止める。
いつから、なんてきっと愚問だ。立ち去る足音はしなかった。
意識的に何度か瞬いて視界をクリアにする。
普段どおりの動きで声の方へ振り向いた。
赤羽は腕を組み部室の外壁に寄りかかるように立っていたが、すぐ身を起こしてヒル魔の傍に近づく。
そうしてまだ水滴の残るヒル魔の右手をとった。
初めて、そこで初めてヒル魔は自分の指先が微かに震えていることに気がついた。
多分、あの瞬間から。ずっと、今まで。
無意識に左手が右腕にかかる。
淀んだ澱が形を成す。
もしも、この腕が。
クリスマスボウルに往く、前に。
「大丈夫だ」
言い聞かせるような声にヒル魔は顔を上げる。
赤羽はいつも通り無表情だったけれど、穏やかにもう一度繰り返した。
「大丈夫だから、一緒に帰ろう」
どんなに分かり合えたと思っても、他人の望みどおりには動けない。
分かっていても何故、人は誰かの為に動こうと思うのだろうか。
誰かの為にだけ、言葉を紡げるのだろうか。
それが時に、望んだ以上のものを与えることを知っているから?
蒼く深く澄んだ芯は揺らがなかったけれど、僅か感情を滲ませて伏せられた。
促すように手を引かれて黙って従う。
暗闇でも分かる赤い髪が流れて、それが目の前に来た時に目を閉じた。
自分を乗り越えるのは自分だけだと知っていた。
けれど、自分を救うのは自分だけじゃないとたった今、知った。