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「嫌いなもんねぇの?」


ヒル魔が自分のパスタディッシュからアサリを避けながら言う。
たっぷりの白ワインで蒸したアサリと、ニンニクの香りを移したオリーブオイルを細めのパスタに絡めたボンゴレ・ビアンコ。
ボンゴレとはイタリア語でアサリのこと。
折角メインのアサリだというのに、ヒル魔は避けたアサリを足元に控えるケルベロスの口に放りこんでいる。

「嫌いだった?」

赤羽がフォークを持つ手を止めてヒル魔に問う。
「味はいいけど、食感が好きじゃねぇんだよ」
ヒル魔はケルベロスにアサリをやるのに夢中で顔も上げずに言葉を返した。
「ハマグリとかエスカルゴは許す」

エスカルゴは二枚貝じゃない…。
どうしたらその二つが同列に並ぶのか、赤羽は少し微妙な気持ちになった。


ヒル魔は赤羽の前では割と適当にしゃべる。
普段、自身の聡明さをひけらかさない程度に、そして、その計算高さを印象付けるように
要は自分に向けられる感情をコントロールするためにヒル魔は完全に計算しつくされた言動を取る。
何を言えば何を思われるか、どう動けばどう反応されるのか、考え抜いた上で行動する。
しかし、赤羽の前ではそういったものを全て放棄しているようで、意外に考えなしの発言をすることが多い。
少し天然が入っているんじゃないだろうかと、赤羽は最近密かに思っているほどだ。
だから間違っても彼は泥門部員たちの前ですらハマグリとエスカルゴという微妙なチョイスをしないだろう。
そもそもそんな己の趣向を明かすことすらもないのかもしれないが。

「っあー、なんかエスカルゴ食いたい。輸入してみっかな。フランスだっけ?」
「…そう、フランス」
「生きてんの売ってんのか、やっぱ冷凍されてんのか。ネットで探してみるか」

もしや原型のまま、つまりはカタツムリ状態のあれを輸入する気なんだろうか。
赤羽の胸中に不安が過ぎる。
ヒル魔は普段料理をしないくせに、何故か調理器具だとか材料だとかに懲りたがるタイプだ。
海外のネットショップで活きのいいエスカルゴを探す気に違いない。
そしてそれを、無理を押して個人輸入してしまうに違いない。
すでに調理済みならいざしらず、流石に原型のままのあれを調理するのは赤羽も遠慮したいところだった。
かといってヒル魔にやらせたら、いっそ生の方がましなものが出てくるに決まっている。
黙り込んだ赤羽にようやくヒル魔が顔を上げた。

「で、あんの?」
「カタツムリ?」

一瞬何を聞かれているのか分からずに、赤羽が反射的に言葉を返す。
ヒル魔はパスタにオイルソースを絡めながら冷たい視線を投げる。
カタツムリの話をしている最中にカタツムリと発言して何が悪いのか分からない。

「嫌いなもん」
「ああ、」

そういえばそれを聞かれていたんだったと思い出す。
エスカルゴの衝撃が大きかったようで完全に問いが飛んでいた。
しかしその問いの解に困窮してしまう。
答えあぐねてやはり赤羽は黙ってしまった。
ヒル魔は特に急かす様子もなく、静かにフォークを口元に運んでいる。
伏せた睫毛や金色の細い前髪が落とした影が、白い頬に僅か陰りを生んでいた。


「あんまりそういうこと、言わねぇから」

確かに赤羽はヒル魔に対してそういったことを言ったことがなかった。
でも別に赤羽だって聖人君子じゃあるまいし、苦手なものや嫌いなものはある。
食べ物に、限らず。
少し考えてから、それでもヒル魔に分かってもらおうと赤羽は口を開いた。


「フー、もしキミが好きなものを僕が嫌いだと言ったら、キミはあんまりいい気がしないだろ」
「だから」
「そう」


短いやり取りだったけれど、ヒル魔には赤羽の意図が伝わったようで
そのせいなのか何なのか少し眉をひそめた。

「俺が甘いの嫌いなの知ってんだろ」
「もちろん」
「それでてめぇが甘いもの好きだとする。仮定の話な」
「分かった」
「俺は別にそれを一々気にしねぇ。でも、無理やり薦めてきたら殺す」
「要は」
「そういうこと」


なるほど合理的な思考回路を持つヒル魔らしい考え方だ。
ヒル魔はあまり過程を気にしない。
どちらかといえば結果で判断するタイプだ。
だから相手が何を好きでも嫌いでもそれは構わないけれど、その嗜好を押し付けてくるのは不快というわけだ。

どちらかといえば感性を重視する赤羽は、結果よりも過程を、所謂フィーリングを気にするが故
自分の発言だけでヒル魔が不快になるのではないかといらぬ気を回していたということか。


空になったパスタディッシュを手で押しのけながら、ヒル魔が赤羽の目をじっと見る。
サファイア色をしたヒル魔の目は、浅いのか深いのかよく分からない。
何を考えているのかも。
ただ蛍光灯の灯りが映りこんだ彼の瞳は、まるで波間に揺れる光すらも再現した鮮やかな夏の海のようにも見えて
赤羽は別に大して好きでもない海に無性に行きたい気持ちに駆られた。

もう九月。
穏やかに過ごした高校最後の夏が終わろうとしている。


「で、好きなのか?」
「キミのこと?」
「アホか!」

言葉より先にテーブルの下でヒル魔に脛を蹴っ飛ばされた。
「フー、痛いじゃないか」
「当たり前だ!」
暴力に訴えても無表情を貫く赤羽にヒル魔が切れて怒鳴る。
怒鳴った後に、確かにちょっと飛んだ発言だったとちらりと思った。

「…だから、甘いものとか」

気持ち、言葉を付け足してみる。
どうも言葉足らずなところがある。
油断してしまうのだ。どうしても。

しかし赤羽もそういったヒル魔の一見脈絡のなさそうな会話の仕方には大分慣れてきていた。
頭の回転が速い人間がうっかり口を開くとよくこういったことが起きる。
自分の中で高速で物事を考え処理してしまうので、他人と本来もう二言三言会話しないと出ないような発言や結論を
先走って口にしてしまうのだ。
もちろん、大抵の場合はそれを自覚した上で考慮した発言を行うものなのだが
ヒル魔はそれを赤羽の前でよく失敗していて、更に赤羽はそれを可愛いと思っている。
幸運なことに、生来口数の少ない赤羽はその感情をヒル魔に告げたことはない。


「さっきの例え話か」
「まぁな」
「フー、確かに好きだけれど」
「へぇ…」

自分から話を振っておいて、気のない返事を返される。
ここにきて先ほどからヒル魔がコントロールしていた会話の流れの意図が気になった。
一体彼は何が言いたいのだろうか。何を聞きたいのだろうか。

しかし赤羽が口を開く前にインターフォンが鳴る。
リビングの壁にかかった受話器についている小さな液晶が点灯した。
夜分の来客に首を傾げながら赤羽が立ち上がろうとすると、それよりも先にヒル魔が立ち上がってしまう。

『お届け物でーす』

エントランスを映す液晶画面の中で、白い服を着た男が手に持った白い紙袋を画面中央に掲げている。
きっとヒル魔がネットの通販で買った何かだろう。
日中は家に誰もいないので、よく夜間配達を利用しているようだった。
ヒル魔は無言で画面下のボタンを押して入り口のオートロックを解除し、そのまま玄関の方に向かう。
ケルベロスも主の足元をグルグル回るようにじゃれながら付いていってしまった。

残された赤羽は空いた皿を持ってキッチンへと向かう。
玄関を開ける音と、聞き取れないけれど二言、三言のやり取り。ドアを閉めて鍵をかける音。じゃれつくケルベロスを制する声。
ヒル魔の立てる物音を聞きながら、皿をシンクに置いて水道の蛇口を捻った。

洗い物を済ませてリビングに行くと、ヒル魔はソファーに座っていた。
ケルベロスはその前足をヒル魔の肩に置いて顔を覗き込むように甘えている。
少しごわごわした背中を、白く細い指がなぞるように優しく撫でていた。
先ほど受け取ったらしい荷物は未開封のままテーブルに置かれている。
いつもはダンボールに梱包されている場合が多いのに、今日の荷物は紙袋に納まっているのが珍しい。
赤羽が向かいのソファーに座ると、ヒル魔がケルベロスを自分の足元に座らせた。
そういえば、今日はノートパソコンも見当たらない。


「てめぇが、そんなん好きだとか嫌いだとか分かんなかったから、見切りで買った」

「何?」


少し小さな声で切り出されて聞き返すと、物凄い勢いでヒル魔に睨まれる。
不機嫌になってしまったヒル魔は乱暴に紙袋に両手を突っ込むと、中からモスグリーンの包みを取り出した。
高級なことで知られる有名なフルーツショップのマークが印字されたそれを、ヒル魔は惜しげもなく破り開ける。
現れた白い紙箱も適当に開けて無造作に赤羽の方へ押しやった。
その中には、艶めくような苺が溢れんばかりに載せられた生クリームのホールケーキが鎮座している。

流石に驚いた赤羽が、その赤い瞳を丸くするのをヒル魔は満足げに見た。
ソファーにもたれて笑う。

「嫌いっつっても、無理やり食わしたけどな」
冗談めかして言うヒル魔に、珍しく赤羽が口元を緩ませる。

「ありがとう。キミが僕の誕生日を知っているとは思わなかった」
「俺に知らないことはねぇんだよ」

確かにヒル魔は数値上のデータはなんでも知っているかもしれない。
けれど、こんな些細な、例えば甘いものが好きだとか、嫌いだとか、そんなことも知らなくて伝えなくて
分からなかったと小さく零したその口で知らないことはないと笑う彼の想いも
お互いに、どうして今まで共有できなかったのだろうか。


「ヒル魔、お礼に」
「一曲はもういい」
「…フー、じゃあコーヒーでも淹れようか。僕はモカが好きなんだけど」

立ち上がった赤羽を、ヒル魔が首を傾げながら見上げた。

「俺、アメリカン」

「…覚えておくよ」

あんまりコーヒーにこだわりはないんだなと、赤羽がもう一度微笑した。




黙っていても伝わることが嬉しくて
でもそれは言葉で交わる想いよりもずっと小さなものだったのかもしれなかった。

だから、今日の事を、小さく零された音色を、決して忘れないようにしよう。
言葉だって五線譜に舞う音符だって、誰かに何かを伝える喜びのために生まれてきたのだから。