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部活が休みだから久しぶりに買い物に出かけた。
髪は立てていない。
だから、誰にも気がつかれない。


暮れかけた街に視線を投げる。
途切れることのない人と車とあらゆるものがいくつも交差して
いつの時間も渋谷の町は騒がしい。
休憩に寄ったファミレスで、ヒル魔はゆっくりとコーヒーを口にした。
薄くてあまり味がしなかったけれど、冷えた体を温めるには丁度いい。

髪を下ろしていたおかげで、今日は無駄に絡まれることなく注目を浴びることなく買い物ができた。
アメフトのために随分無理を通し無茶をした。
無論後悔なんてしているわけもないが、やはり自分の顔を見るだけで知らない人間が逃げていくのも奇声をあげるのも
知っている人間が媚びてくるのも襲ってくるのもたまには面倒になる。
ましてやただ買い物に出ただけでいずれかの面倒な出来事が10m歩く毎に発生するならば尚のこと。
だから、色々と面倒な時は髪を下ろしてサングラスをかけて歩くようにしている。
これならすれ違い様に気がつかれることはまずなかった。
誰も彼も他人をジロジロ見て生きているわけではない。

ソーサーに戻したカップが澄んだ音を立てる。
外は早くも濃紺の空気が足元にまで降りて来ていて冬の夜を告げている。
日が暮れれば一段と寒さも増すだろう。
ソファーで小さく伸びをして、そろそろ帰ろうかとヒル魔はショップの紙袋を手に取った。
立ち上がり入り口のレジに向くと見覚えのある顔に気がつく。
顔、というより真っ先に目が行ったのはその特徴的な赤い髪。
盤戸の赤羽隼人が入り口の近くの席にいる。
あのギターケースを抱えて、恐らくアメフト部ではない
(つまりヒル魔の見覚えのない)何名かの連れと一緒だった。
赤羽以外の男も長く黒いケースのようなものを席においていることから
多分バンドのメンバーあたりだろう。

ま、いいか

あまり気にせず伝票を持ってレジに向かった。




和音のように響くヒールの音にテーブルの上に広がっている楽譜から視線を上げると
見覚えのある人物が歩いてくるのが見える。
髪を下ろしていたしサングラスでその特徴的な碧い瞳は隠れていたけれど
その細い顎や長い指先は見知ったものだった。

「ヒル魔?」

声を掛けられた人物は驚いたようにぴたりと静止する。
「……」
無言だったから一瞬人違いかと思った。
しかし改めて顔を見るとテーブルの横に立ち止まった人物は本人に間違いはない。

「偶然だな」
「…ああ」

返された声はやはりあのヒル魔のものだ。
ショップの紙袋を抱えているのを見ると、買い物にでも来たのだろう。

ヒル魔が思わず沈黙してしまったのは一重に驚いたからだった。
気付かれないだろうと思い込んでいたし、まさか声まで掛けられるとは予想外だった。
返事を返したものの、どうしたものかと考えていると赤羽の横の席の男が控えめに口を出す。

「誰?知り合い?」
「ああ、泥門アメフト部のヒル魔だ」
「泥門?どっかで聞いた気が…」

顔を見合わせる赤羽の連れを前にさっさと立ち去るべきだったとヒル魔は後悔した。
その名前まで出れば、知らない奴の方が少ない。
しかし彼らの返答はヒル魔の予想外の言葉だった。

「あー、赤羽が負けた相手の!」
「それだ!思い出した」

赤羽が落ち着いた声で肯定するのを、ヒル魔は黙って見ていた。
「引き止めて悪かった」
「いや、別に…」
ヒル魔はサングラスを引き抜く。
碧い視線は赤羽の赤い瞳を捉えてから、テーブルの上に散る譜面に落ちた。
「これ、」
「ああ、まだ未完成なんだけど」
白い指が譜面を何枚か取り上げる。
鉛筆書きの黒い音符が丁寧に並び、その下には歌詞が書かれている。
メロディは完成しているようだが、未完成と言うとおり所々フレーズが抜けていた。
ざっと目を通すと恐らく片想いを謳った感じの歌詞だ。
流行のポップスよりも洋楽を好むヒル魔にはよく分からなかったけれど
言葉使いだとか、考えられて韻の踏まれた日本語の歌詞は綺麗だった。

「いい歌詞だな」

独り言のような声と同時にヒル魔は赤羽が見たことのない柔らかい微笑を浮かべた。
以前フィールドで見た指揮を執る楽しそうな笑顔でも、挑発的な笑顔でもない。
本人が意図したものなのか分からないけれど、そんな風にも笑えるのかと赤羽は思った。


無意識に呟いてしまった言葉を聞いて赤羽が少し驚いた気がする。
視線は譜面に落ちていたがそんな気配を感じてヒル魔は顔を上げた。
「ありがとう」
視線が合うとすぐに赤羽がそう言って、そこで初めてこれは赤羽が書いたものだと思い当たった。
どう返答すべきか迷って、結局無言のままテーブルに譜面を戻す。
そしてもうそろそろ立ち去ろうと思った。

「折角だし、よかったら俺らのライブ来ない?」

ヒル魔が口を開きかけたところで、赤羽の向かいの席の男が声をかける。

「今日の夜、ちょっと遅いけど19時からやるんだけど」
「そんな急に言われてもヒル魔も困るだろう。興味があるかも分からないのに…」

男を制止する赤羽の前に万札を挟んだすらりとした指が差し出される。

「ヒル魔、別に無理をしなくても」
「興味、あるけど。今キャッシュがこれしかねぇ」

そう言われて赤羽は戸惑った。
ヒル魔が不思議そうな顔をする。
「釣りがねぇとか?」
気を使ってもらっているのかもしれないと赤羽は思った。
しかしヒル魔が折角ここまでしてくれるのだからとチケットを差し出す。

「お金はいいから、あげるよ」
「タダなのか?」
「いや、違うけれど知らない仲でもないだろ」
「ふーん…サンキュ」

チケットを受け取ったヒル魔は簡単に礼を述べて適当に時間を潰してくると立ち去る。
赤羽の横を過ぎるヒル魔から、淡いシトラスの風が舞い上がった。



弦にそっと触れて弾くと同時に指を離す。
耳を澄まし低い音から丁寧に合わせて弦の奏でる繊細な音の波を聞き取る。
赤羽は普段から音叉等を使わず自分の音感でギターのチューニングを行っていた。
最後にチューナーを使ってズレがないかを確認する。

「さっきの子、来てんの?」
ギターのチューニングが終わったタイミングで声を掛けられる。
赤羽はテーブル上のチューナーから控え室のモニタに映し出される薄暗い客席に視線を投げた。
「さぁ、前列にでもいない限り分からない」
「大人しそうだったもんな、後ろの方にいるのかもよ」
「……」

ヒル魔が大人しいなんて、ヒル魔を知っている赤羽には違和感を覚える言葉だった。
しかし普段のヒル魔を知らない人間にとってはそんな風に見えるものなのかもしれない。
そこまで考えて、赤羽は自分も普段のヒル魔を知らないことに気がつく。
せいぜい試合中の彼くらいしか見たことがない。
もしかしたら、今日さっき会った時のように口数の少ない彼が素なのかもしれない。
もう一度思い返す。あの時、自分の書いた楽譜を見て微笑を零したヒル魔を。

「チューニングはもういいか」
「ああ」
「じゃあそろそろ行くか」

控え室の扉を開ければ、客席から響く重低音のざわめきが胸を打つ。
赤羽は一つ深呼吸をして、ステージへ続く階段を昇った。


結局演奏中はヒル魔が来たかどうかは分からなかった。
ステージに上がってしまえばギターにしか意識が向かない。
MCの間語られるヴォーカルの声も脳裏を掠めていくだけで、次の演奏のことを考える。
それでも全てを終えて控え室に戻ってきたときに、テーブルに投げ出されたままの携帯は一件のメールを受信していた。
登録していないアドレスだったから名前は出ない。件名もなかった。

『お疲れ。面白かった。また次があったら教えろよ。』

赤羽は自分のアドレスを教えた覚えがなかったが、多分ヒル魔だろう。
礼を言わなければ。
そう思って赤羽は控え室を急ぎ出る。
メンバーが何か言った気がしたが耳に入らなかった。
階段を駆け上がって裏口に出る。
ライブハウスの正面に回ると、駅に向かう集団や立ち止まって話し込む集団でごった返していた。
駅に向かう人並みに視線をやると、一際明るい金髪の長身が見える。
まだ追いつける距離にいたことに安堵し、走り出そうとしたところで近くにいた集団に声を掛けられた。
思わず動きを止めて振り返る。
まだ中学生くらいの集団で、今日のライブの感想を興奮気味に話してくるので無碍にもできず
赤羽は追いかけようとするのをやめた。

30分くらい入れ替わり立ち代り声をかけてくる集団の対応をしてから控え室に戻る。
何があったのか聞いてくるメンバーに訳を話すと、メールで返せよと呆れられてしまった。
言われてみれば自分でもなんでその発想が出なかったのかと思う。
置き去りにしてしまったギターと携帯を見ながら赤羽は一ついつものため息をついた。


『来てくれてありがとう。またライブがあればメールする。』

少し文面に迷って、赤羽は一番シンプルな返信をした。
もしあの時ヒル魔に追いつけたのなら、自分は何を言えたのだろうか。


それから数日は平穏な日が流れた。
赤羽はライブのために部活の練習スケジュールを調整してくれたジュリに礼をいい
普段どおりのメニューに戻る。
キックの練習ばかりやりたがるコータローを制してパスの全体練習に時間を割く。
アメフトは本来専門職のゲームではあるが、盤戸はメンバーが少ないため
なるべく個々であらゆるポジションをこなせるようにしたい。
もちろんキッカーも例外ではない。
いつも文句は言ってくるが、勝つためだということが分かっているコータローの文句は文句ではなかった。
泥門に破れて以来、いくらスペシャルチームとはいえ
プレイの幅を広げなければ関東大会で通じないことは皆が分かっている。

QBポジションとしてパスを投げている最中、ふとヒル魔のことを思い出した。
去年盤戸が敵わなかったチームすら破って関東大会準決勝に駒を進めた泥門。
まだ1年ばかりのチームを指揮したヒル魔。

彼がいいと言ってくれたあの歌詞は未完のままだ。
次のライブまでには完成させようと思った。


練習を終えて自宅に戻り、赤羽はデスクの上に出しっぱなしの楽譜に向かい合う。
次のライブまであまり時間がない。
練習の期間を考えると急いで完成させる必要がある。

片恋の歌詞は最後のフレーズが決まらないままだった。
誰にも打ち明けたことのない想いを諦めるのか、それとも前進させるべきなのか
結論がでないままで放置していたのだ。
大抵の場合、赤羽は自分の中でだけで歌詞や作曲を完結させてしまう。
今まで誰かに相談したこともなかった。

音楽性を肯定してくれたヒル魔は、この歌詞にどんな結末を願うのだろうか。
あれは多分、本心からの言葉だったのだろう。
あの微笑も、きっと。
赤い瞳を閉じて思考を巡らせる。

キミならどうする?

きっと、諦めないだろうな。


赤羽は自分の思考に驚いて目を開いた。
そんな風に想うなんてまるで。
湧き上がる感情を断ち切って携帯に視線を送った。
あれからメールは送っていない。
成り行きで一度ライブに来てくれたし、次があれば連絡が欲しいとメールをくれたけれど
社交辞令かもしれないと思ったからだ。
連絡をすれば気を使わせてしまうかもしれない。
でももしも次も来てくれるのなら。
嬉しいと、思う。

ひとつため息をついて感情の否定を試みた。
しかし一度認めてしまった思慕は抗いがたく鼓動を速める。
お互いに知らないわけでもないが知っているわけでもない。
それなのにどうしてこんなにも惹き込まれてしまうのか。
一瞬でもあの素顔に触れてしまったのが、きっと。

赤羽は理性で思考を断ち切る。
これ以上は考えてはいけない。
成すべきことは沢山あってそれは自分も向こうも同じだ。
たった一つの感情に煩っている時間はないだろう。
あの時彼との間に流れた時間が心地よいと思うなら尚更。
このまま稀に顔を合わせる程度の関係を続けて行った方がいいに決まっている。
そう、一つ間違えればなにもかも失ってしまう賭けに出るよりよっぽどいい。

だから今一瞬でも抱いてしまった感情は全て否定する。
今ならまだ引き返せるだろう。
暫くは連絡もしないで。
次の次のライブ、年が明けた頃には久しぶりと冷静にメールを送れるはずだ。

もしかして返事は返ってこないかもしれないけれど、それでもいい。


赤羽は自分の結論にもう一度ため息を零した。
間違ってはいないと決め付けてデスクから離れる。
歌詞の続きは書けそうもない。
コーヒーでも淹れて気分転換をしようと思った。

床に積み上げている資料や楽譜の山を避けてデスクに戻ってきたとき
携帯が一件のメールを受信していた。
マナーモードにしたままだったから気がつかなかったようだ。
手に持っていたコーヒーをデスクに置いて携帯を取り上げる。
差出人はヒル魔だった。


『次のライブっていつ?早めに連絡しろよ』


思わず天井を仰ぎ見て直ぐに視線を戻す。
何度読み直しても文面は変わらない。
ヒル魔からのメールだ。
バックライトが消えた薄暗い液晶の中に並ぶ短い文字の羅列。


忘れられると思った。
今ならまだ、引き返せるとさえ。
なのにどうして。


キミは僕の背中を押すんだ。