旅行に行くっていうから揃えたのだ。
何もかも。

ヒル魔はそろえて敷かれた布団の上で開いた携帯を閉じた。
予定ではそろそろ到着する頃だろうと身を起こす。
一つ小さな伸びをして、ゴロゴロしていたせいで乱れた浴衣の裾をひっぱった。

本当の予定ではもうとっくに彼は日本に到着して、二人揃ってここに来る予定だった。
それが吹雪のせいで飛行機が飛び立てず遅れるから先に行ってろというメールが来た。
一人で行ったところであんまり意味がないと思ったが、たまには一人もいいかと考え直してケルベロスを車に乗せて先に出た。ヒル魔は日本にいれば一人であまり出歩かないし、アメリカにいればどこにいってもクリフォードが付いて来る。だから、一人で遠出するのは本当に久しぶりだった。
雪が小脇に積もる温泉街をケルと一緒にゆっくり散策して、小雪がちらつく中しっぽりと露天風呂に浸かるまでは良かったが、流石に夜も更けてくるとまったりを通り越して暇だった。電子ブックの一つでも持ってくれば良かったが、そういった暇つぶしの道具は一切置いてきてしまった。

「温泉だとか抜かしやがってあの糞外人」
ヒル魔の呟きに反応したのか部屋の隅に丸くなっていたケルベロスが立ち上がってヒル魔の傍に寄って来た。しっぽをぱさぱさと振りながら頭でヒル魔の胸をぐいぐい押してくる。
甘えた仕草に宥めるように背を撫でると、満足したのかケルベロスは鼻を鳴らしながら蹲った。
少し早いがもう寝てしまおうかと思案していたが、ふいにケルベロスが立ち上がってしっぽを振りながら襖へと歩いて行く。面倒だがヒル魔も立ち上がり襖を開けて入り口に向かった。流石に鍵を開けてやらなければならないだろう。

「遅…」
文句を言う口はばさっと覆いかぶさってきた冷たい毛皮でふさがれた。
外から来た彼の身体はひんやりとした冷気を纏っているが、ごそごそと手を毛皮の内側に滑らせればむしろ普段よりも少し高い体温を感じる。急いで来たのがわかってヒル魔は少しだけ溜飲が下がった。
「待たせたな」
「もー寝るところだ」
「そうか」
クリフォードは片腕でヒル魔を抱き上げ、もう片手で足元にじゃれていたケルベロスを抱えると靴を脱いで部屋に上がった。
そのまま器用に襖を開けてヒル魔を布団の上に下ろす。
「温泉は?」
「明日の朝でいい」
そう言って抱き締められたのでヒル魔は不満げに目を細めた。
クリフォードが気が付いて髪をなでる。
「また入るの面倒だろ」
どうやら既に入浴を済ませたヒル魔を気遣っているようだが、一人で入るという発想はないらしい。確かに一人で行かせても日本の温泉の入り方なんぞ分かるとは思えない。ヒル魔は納得して瞳を閉じた。

こうして会うのは2ヶ月ぶりだった。
たった2ヶ月ではお互い大して何も変わらない。
それに安心してヒル魔は小さく息を吐く。
抱き締められ大きな手で撫でられて気持ちがいい。
顔を上げれば口付けられた。
すぐにそれは深まって、髪をなでる優しい手は薄い浴衣の上からヒル魔の身体のラインを確かめるように肩から腰へと滑り落ちた。それだけでぞくりと肌があわ立ち身体の芯が溶けてしまいそうになる。望んでしまうのはしょうがないと、ヒル魔はクリフォードのシャツのボタンに指先をかけた。肩に羽織っていた彼の毛皮のコートが空気を孕んで畳に落ちる。
浴衣の袷から簡単に侵入した掌の熱にどうしようもない劣情を覚えながらすべてのボタンを外して彼のシャツを脱がせると、ようやく甘ったるいキスから解放された。
クリフォードの硝子のような碧い瞳に見つめられて、どこかぼんやりした頭で急に湧き上がった羞恥心に思わず視線をそらす。しかしヒル魔は、そのそらした視線の先にあったものに驚いてぴたりと動きを止めてしまった。
目を丸くしているヒル魔の様子が可愛らしくて、クリフォードは僅かに笑みを浮かべる。

「…こ、れ…」
彼の長い指先が恐る恐る肩に触れる。
左肩から肘にかけて澄んだ青海波を逆昇る見事な鱗の黒い鯉。
タトゥーではない、そこにあったのはまさに日本の刺青だった。
今までこういったものを背負う人間を見たことがないわけではない。
中には全身を染め上げたような人間もいて、ヒル魔も興味津々で見せてもらったことがある。
けれどもそれは全部日本での話だ。タトゥーを入れることが珍しくない欧米においてさえ、しかも外人がこんな刺青を背負っているなんて見たことも聞いたこともない。

白磁のように滑らかで鍛えられた異国の肌に鮮やかに映えるその文様を、ヒル魔はゆっくりと指で辿る。
不似合いなような、似合いなような、言い表しがたい倒錯感。
理性では馬鹿げた思考だと思うが、押さえがたく募らせる。
それはまるで、彼の精神を跪かせたかのような。
静かにねじ伏せたかのような。
奇妙な喜悦。
知らずに唇が弧を描いた。
美しいと、思った。


"すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。"


「センセー、きれい…」
うっとりと憑かれたような瞳でヒル魔が言う。
あっけに取られた可愛らしい顔を見せたのはほんの一瞬で、今はその闇色の瞳に妖艶な炎をゆらゆらと灯している。紅い唇が欲に溺れて小さく熱を吐いた。
その様子にクリフォードは酷く満足する。
ヒル魔は指だけでは足りなくなったのかクリフォードの腕にしなだれて潤んだ唇を波に寄せた。
そうしてまるで猫のように薄い小さな舌でそっと刺青を舐め上げる。
我慢できないのかたまに甘く歯を立てながら飽きず舌を這わせる様子を眺めていたが、やがてクリフォードはすっかり乱れてしまった着物の裾からヒル魔の太腿に右手を這わせた。
しっとりと汗ばみ滴るような肌に掌を滑らせると、誘うように脚が開かれて彼の唇からは濡れた吐息が零れた。発情しきったその様に我慢できずクリフォードはやや強引にヒル魔を押し倒す。
「待っ…」
待てるわけもなくクリフォードは力が入って浮き出たヒル魔の細い鎖骨に舌を這わせた。
小さな身体がびくりと跳ねるのを抱き締めて秘めやかな首筋に最初の紅い華を咲かせる。
「…不思議な味がするな」
「っ…、温泉、入ったから」
そういうものなのかと問えばヒル魔は熱い息を吐きながらこくりと頷いた。
「身体にいいと聞いたな、明日一緒に…」
「温泉」
遮るようにぽつりと呟かれた言葉にいぶかしんでクリフォードはヒル魔の顔を覗き込んだ。
「サニー?」
「日本の温泉は…」
「…?」



「刺青した奴は入れねーんだよこの馬鹿外人があああああああ!!!」





""内は谷崎潤一郎「刺青」からの引用
今は言ったら入れてくれる温泉多いみたいだけどね。